AKとカラシニコフ

AKとカラシニコフ
AKとカラシニコフ
 

AKについて

エアガンでも定評のあるAK

サバゲーやコレクションとしてエアガンやガスブロ AKを所有しているサバゲーユーザーも多いと思います。AKというと映画でも良く出てきますがロシアをはじめ中東などの過激派グループが持っているイメージ=悪者側が使っている銃 という印象がありますが、実際はアメリカのPMCや各国の歩兵などが正式採用していたりもします。
AKというと木ストック+木ハンドガードのイメージが強いですが、20mmレールを実装したハンドガードやデザイナブルなグリップ、アウターアクセサリーなども多く存在し「めちゃくちゃカッコイイ」仕様のAKを所有している隊員も実在します。

もちろんエアガン AKや電動ガン・ガスブロにおいてもパーツの選択肢は広く、ORGA AIRSOFTがディーラーをやっている香港のPTSを始め、US PALMやAsura Dynamics(アスラダイナミクス)など数多くの製品が発売されている。

電動ガン AKとしての上位メーカーは LCT , E&Lなどが代表される。
ガスブロ AKとしての上位メーカーは WE-TECHやGHKなどが代表される。

AKとカラシニコフ

そもそもAKって?

銃に詳しくない人でも、「AK」という名前は聞いたことがあると思います。
カラシニコフ銃と呼ぶ場合もあります。これらの「呼び方」が具体的になにを指しているのかは場合によって様々で、「AK」と名の付く銃は、無数にりますが、基本的には「AK-47、またはそれを祖先とする銃」を指します。
「AK-47」という銃は、ロシア軍が1947年に設計したアサルトライフルで、「AK」とは、アブトマット・カラシニコフ(Kalashnikov)の略で、「アブマット」は「オートマティック」、「カラシニコフ」とは、設計者であるミハエル・カラシニコフのこと。
「47」は、設計された年の下二けたを表しています。
つまり、「1947年型カラシニコフ式自動小銃」といった意味の名前です。

外見上は、木製のストック(肩当)とグリップ、30発入りのマガジンが特徴です。ロシア製の7.62×39ミリの弾薬をフルオート可能で、殺傷能力も5.56mmに比べると高いのが特徴です。軍用アサルトライフルとしては極めてシンプルな構造で、訓練を受けていない隊員にも扱いやすく、そして何より頑丈。これほどに頑丈な銃は、AK-47以外ではほとんど存在しないと言われる程です。

AK-47

AK-47の歴史とカラシニコフ

AKシリーズの祖、AK-47の誕生は、第二次世界大戦にあります。
当時、歩兵の主な装備は、フルオート機能が無いライフルでした。そんな中、特に連射性能を意識したライフルを開発したのがドイツです。ドイツのSTG-44は、突撃銃すなわち、現代のアサルトライフルの概念を確立させた画期的な銃でした。
工業力の問題で、ドイツ全軍にいきわたるほどには生産されませんでしたがドイツ軍と真正面からぶつかった旧・ソビエト連邦は、その性能に大いに驚かされました。

戦争が終ると、SGT44の基となった、ソビエト製ライフル「フェドロフM1916」(1916年に作られたが、その後のロシア革命の混乱で、少数の生産に)を作ったウラジーミル・グリゴーリエヴィチ・フョードロフをプロジェクト統括に据え、ドイツから連れてきたSGT-44の設計者、ヒューゴ・シュマイザーと、当時新鋭の銃器設計者であったミハエル・カラシニコフの二人をチームとし、新しい自動小銃の設計を行わせました。
ミハエル・カラシニコフは、第二次世界大戦当時、戦車長として従軍していましたが、ドイツ軍との戦いで重傷を負い、その時の経験から、連射可能な銃の必要性を痛感して、銃器設計者になることを決めた人物です。

ミハエル・カラシニコフ

設計にあたっては、当時、ソビエトの工業力が低かったことから「簡単に作れて、安価なこと」また、独裁者スターリンの下で行われた大粛清や第二次大戦で多数の戦死者が出て、人材も乏しかったことから、「誰にでも扱いやすいこと」そして「過酷な戦場でも簡単には壊れない頑丈さ」が特に重視されました。

そこで、カラシニコフはあるアイディアを思いつきます。
当時のトレンドとは逆に銃の各パーツを可能な限り大型化して、シンプルな構造にし、各パーツの間にわざと隙間を作り、隙間があっても問題なく撃てるように設計したのです。その事で、寸法のずれたパーツでも動作させることができ、工業力の低い国でも作りやすくしました。

その後数度にわたる改良を経て様々な問題点を克服し、1947年ソビエト軍のテストに提出され、1949年に正式採用されます。「AK-47」の誕生でした。
ソビエト軍の正式採用ライフルとなったAK-47は、その安さと作りやすさで大量生産されました。
生産の過程で問題点の改善のために、三つのバージョン生産された他、小型化したAKS-47、近代改修型として1950年代には、AKMが誕生します。そのシンプルな構造から、東側諸国でも独自に生産、改良が施された派生モデルが大量に登場。本家ソビエトでも、その後さらにAK-47をより小さい弾薬を使用するAK-74、軽機関銃として再設計したPRK、銃声を極限まで小さくした特殊用途の狙撃銃 VSSなどを開発します。
また、AK-47自体の設計思想は、直接AKから派生しない銃にも多く引き継がれ、結果的にAKにそっくりな銃が多数存在しています。

AKとカラシニコフ

ソビエトの崩壊、冷戦の終結によってもAKシリーズは衰えることはなく、新たにAK-100シリーズが誕生し、AK-200を経て、2012年最新型アサルトライフルAK-12が、ロシア軍でテストされている。その一方で、AK-47は、裏社会にも大量に出回りました。安価で扱いやすい、というその性質からマフィアやテロリストなどにも愛用されるようになってしまいました。加えて、ちょっとした設備があれば簡単に作れてしまうシンプルな構造から、違法コピーが氾濫。違法コピー品も含めると、実に1億挺以上も生産されたと言われています。そうして生産されたAKは、世界中の戦場で、あらゆる勢力の人間たちの手で使われたことから、「史上、最も人を殺したライフル」、「小さな大量破壊兵器」とも呼ばれています。

2013年に死去したカラシニコフは、こうした状況に心を痛め、晩年こう語ったと言われています。「わたしは自分の発明を誇りに思っている。しかし、それがテロリストたちに使われているのが哀しい。人びとが使えて、農民の助けになるような機械を発明すればよかった。たとえば芝刈り機のようなものを。」

カラシニコフ短機関銃

ミハイル・チモフェエヴィチ・カラシニコフ

1919年、西シベリアのアルタイ地方に生まれ。1938年に徴兵、1941年に発生した第二次世界大戦(大祖国戦争)に参加。ドイツ軍が部隊の機械化と小火器の自動化で圧倒的な戦闘力を発揮したことに衝撃を受け、銃器設計の途を志した。病院で療養中に、処女作となるサブマシンガン、カラシニコフ短機関銃(ロシア語版)を設計する。
この銃自体は軍用として採用されるには至らなかったが、これがきっかけで TT-1930/33拳銃(いわゆるトカレフ拳銃)の開発者として知られるソ連造兵界の重鎮フィヨドル・バジレヴィッチ・トカレフに才能を認められ、1943年に当時のソ連最大の兵器工場であるトゥーラ造兵廠に迎えられた。

AKとカラシニコフ

AKの大まかな種類

AK-47

1949年にソビエト連邦軍が制式採用した歩兵用アサルトライフル

AK-74

1974年にソビエト連邦軍が従来のAK-47系列の後継とたアサルトライフル

AK5

ボフォース社が製造するスウェーデンのアサルトライフル

AK-12

ロシア製アサルトライフルであるAK-47シリーズの最新モデル

AK-105

ロシア連邦製アサルトライフルAK-74Mのカービンモデル

AKM-63

共産主義政権下のハンガリーにおいて生産された、AK系のアサルトライフル

AKU94

AK47/AK74のアクセサリーを製造・販売しているK-VARコーポレーションが開発した、AK47の民間向けブルパップコンバージョンキット

AKとカラシニコフ

AKとカラシニコフ

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